真理の把握するのに、ものを在りのままにしておくって(驚愕)…なんか…一般的に「もの」について何かしら解明したかったら、あれこれなんかしらの状況において実験したり働きかけ変化をしるんじゃないかと。なんもしないで把握するってそれこそなんか「悟る」としか言いようがないです。(驚愕) そういう時のその人の状態は…人が開かれるってなんか…なにが閉まってたかわかんないけど、気が付かないでしまってたとこが開かれるのかなと思いました。そして反応的になってしまうのがなんかすごいです。真理って「これがそれだ!」って合致とか会得するのがむずかいと思うんだけど…なんか真理に反応する感じかなと思いました。感受的な程度おいて可能…えー(驚愕)真理があるならキッチリカッキリ、数字や式や図形やなんか具体的に掴みたい!気がするのですが、感受的な程度…きゅんきゅん<ドキドキみたいなことだろうかと。えー!なんかギャルっぽい気がします。大拙氏はなんか高僧で静かでそして同時に若くてめっちゃギャルみたいな。イメージ混乱でわけがわからなくなってきました。 もりけんさんが注目したことは「在りのまま」なんだなと思いました。なんか…真理の把握の「真理」の感受の程度と関係してる気がしました。「有る」にはドキドキしないけど「在る」にはズキューンみたいな。有るがままは人っぽいし、在るがままはモノっぽいなと思いました
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