人間は時空自身の分身であると仮定します。 そして時空の視点に立って、地球に生息するリモコンロボットである人間を観察してみます。
何の問いも持たず決められた運命のままに行動している人間を見ていても、あまり楽しくありません。 その先の結果は全て予測がつくからです。 しかし、自分の存在を、時空そのものの存在を問うている人間を発見したらどうでしょう。 時空である私は興奮すると思います。 かなりデカイ快です。 時空である私はコーフンしながらその特殊な問いを発する人間に注目します。 「何かわかったのか?」 「何か気付いたのか?」 と・・。 つまり時空自身も自分の正体を知らないのだとしたら、自分の存在を、時空の存在を問う人間を無視できるはずがありません。 気になって気になって夜も眠れない時空(笑) これが私と時空の通信の始まりだと思います。
下位の問いという「盲点」は、時空との通信回路を開くスイッチでもあります。 盲点と書いたのは、下位の問いが奇妙な問いに思えるからです。 「私は誰か。時空はなぜ存在するのか」 とは何とも奇妙です。 しかし言われてみれば、本当にこれほどの謎はないように思えます。 心が一瞬空白になってしまします。 気が遠くなるような、あまりにもデカすぎる問いだから、ほとんどの人はそれを見ないようにする。 どんな人の前にも常に存在する問いなのに、怖くて直視できず、無意識のかなたに葬り去ってしまう。 しかし、その問いこそがまさに時空との通信回路を開くスイッチだった・・。 多くの人が目をそむけるその問いこそが・・。
時空も自分の正体が分からない。 私も自分の正体が分からない。 両者が共有できる問いは「私は誰か」という問いです。
生き方を問うても運命が変わらないのは、時空はその問いに興味がないのだと思います。 しかし「私は誰か」と問われたら、時空も私も答えを知らないわけだから、とりあえず提出できる答えは「仮説」ということになります。 仮説だからどんどん内容を変えることができる。 この状態はがんじがらめの運命から少し自由だと思います。
下位の問いを持つ人の運命が自動的に変更されるのは、その人の人生が問いに対する「答え」ではなく、問いに対する「仮説」であるからだと思います。 答えの分かっている問い、すなわち上位の問いに生きる人は、その人の人生が問いに対する「答え」になってしまうので、運命もガッチリ固まってしまうのでしょう。
時空と私にとっての「快」へのジャンプは、下位の問いへのジャンプだと思います。
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